#3

外出自粛の間『Undertale』というゲームをクリア(1周目)したのでその話でもしたい.

このゲーム,実は3,4年前から今まで特に仲の良かったフォロワー数名から”ぜひやってほしい”と熱烈なプレゼンテーションを受けていた.「とにかく反応が見たい」以上の理由は誰も教えてくれなかったにも関わらず,取り敢えずネタバレは踏まないでほしいという言葉を律儀に守り,なんとあのロゴと「骨のキャラクターがいる」以上の情報を入れずにプレイする事となった.

結果から言うと,大成功だ.皆の言葉を愚直に守って正解だった.ゲームシステムも,何もかも一切の情報を入れないに尽きる.なのでもし,何かの手違いでこの記事を見てしまった未プレイ者は今すぐにこれ以上読むのをやめてほしい.以下は私情を挟んだプレイ雑記メモだ.


クライマックスとなる戦いを終えて,無音のダンジョンをケツイに満たされながら,何が待ち受けているのか進み.”Undertale”のイントロが流れた瞬間とNew Homeであると理解した瞬間はほぼ同じだったと思う.緊張の糸が緩んだんだろうな,涙が溢れた.部屋の一つ一つを開けている時,力を証明して見せよと言ったTorielを倒してしまった事を後悔した.その後悔は,Home からRuins の出口に至る長く無音の通路とほとんど同じ構造の,NewHomeからの地下通路を進んでいくと共に増幅した.

Sans のLast Corridorでの審判で,EXPとLVの意味を聞かされた時,涙が止まらなくなった.ここまでの私のKILL数は25であった.ほとんどが,Torielを倒せないと悟ってLVを上げるためにRuins で倒したモンスターだった.その後,ゲームバランスを理解し始め倒さなくとも物語を進められる確信を徐々に得つつも,和解方法がわからず,こいつとは分かり合えないと倒してしまったモンスターもいた.涙の訳ははっきりしていた.実は,倒すという自分のふるった暴力への後悔よりも「何が正解なのかわからない中で突き進むことに対するストレスの解放」とそれが「現実の世界を生きる事と相似形だという気づき」が大きかった.

RPGは 目的がはっきりしているのが常だ.ポケモンならリーグチャンピオンになる事だし,マリオなら大抵ピーチ姫を助けるのが大きな目的で,その大きな目的を達成するために行く手を阻むボスとかダンジョン内の敵を倒す.ロールプレイングとついているのだからトレーナーなりマリオなり勇者なり何なりとして,そのロールが果たすべき目標が設定されている.ただ,Undertaleは,最初から何が目的なのか,あまつさえ私の場合は最後まで何が目的なのかわからなかった.地上に出ることなのか,モンスターと和解し友達になることなのか,ただ,わからないなりに進まないと物語は進まない.「ゲーム的正解」の存在は常に頭の片隅にあった.

結局,Sans の審判でもAsgore ,Flowy との戦いでも正解を告げられることはなかった.クリアした後にようやく自分なりの正解を決めなくてはならないと気づいた.ふるってきた暴力もまた一つの事実としてセーブされ,毎日が不可逆な行動選択の連続であり,意味も正解もない中を進む.むしろ通ってきた道を正解として許容していく自らの日々のようで「ああ,現実だよなあこれは」と独り言ちた時,また涙が出てきた.RPGを人生に投影しすぎたよ.

『Detroit: Become Human』も一度クリアしたのだけれど,操作キャラクターであるコナー達と並走しながら,己の持つ倫理観/道徳観と社会通念あるいは環境から判断して最適解を導く感覚であったのに対し,より内省的な…これは判断というより決断を求められていたゲームだったと思う.どちらも己が操作の結末に涙したのだけれど『Undertale』は自らの子どもの部分と言うべきか,より根源的な部分を揺すぶられたような体験だった.

面白かったなあ.今は所謂「不殺ルート」に挑戦中である.なお友人から「虐殺ルート」もあると教えてもらったが,絶対にやらないと決めている.ゲームの旨味が,と言う人もいそうだがやはり……自らの露悪的好奇心に対しては人一倍敏感な自信だけはある,それに”負けない”というのが私なりの決意である.